WHITESOFT「猫撫ディストーション」で確認したいこと

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待って待って待ち続けていました。ことは2004年8月に発行された「美少女ゲームの臨界点」にて元長柾木氏が記した論考「回想――祭りが始まり、時代が終わった」から始まります。これは「エロゲのフォーマット」について書かれたものですが、フォーマットすなわち「エロゲの規範や約束事」について詳細に洞察していた氏が、この論考後にどのような作品を作るのか非常に興味がありました。しかし、これを書かれた後、エロゲのシナリオを担当される様子がなかった為、半ば諦めかけていました。が、今回「猫撫ディストーション」でシナリオに参加されるという事ですので、ようやくこの願いが叶いました。それこそ7年越しの悲願でございます。

エロゲの範型

論考では「エロゲのフォーマット」という事で4つのゲーム性について説明されています。これに2つの要素を付け足して「エロゲの範型」としました。「範型」とは「paradigm(パラダイム)」の日本語訳です。あの「パラダイム・シフト」とかで使われる「パラダイム」ですが、ここでは「物事を規定するある種の規範や約束事」という意味で使っています。

ゲーム性
  • シミュレーション性 (1992年:同級生)

「ルール性と言い換えることも可能で、世界律の面白さのこと。(中略)アドベンチャーゲームにおいて選択肢の正解を探る行為も、その物語世界における世界律=ルールを探る行為であり、これもまたシミュレーション性に含まれる」と説明されています。そしてこの要素を追求した記念碑的な大作が1992年に発売された「同級生」であり、業界はまずそこを志向したとのこと。ただし、このゲーム性は「同級生」のみによって確立された訳ではなく、これに続く複数の作品によって形成されていき、エロゲの質的・量的な向上と業界の成熟をもたらしたと述べられています。

  • アクション性 (1997年:ToHeart

「プレイヤーのクリックを意識したテキスト及びスクリプティング」「バリエーション豊かな立ちキャラクター」によって「文章を読む→クリックする→新しい文章が表示されてキャラクターの表情が変わる」という繰り返しによる演出が行われ、テキストを送る為のマウスクリックにアクションゲームのような面白さがエロゲに付与されたと説明されています。

  • 二次創作可能性 (1997年:ToHeart

要約が難しかったのでそのまま引用します。「ゲームはフィクションであり、ゲームをプレイする我々の肉体とモニターの中の架空のキャラクターの間には厳然とした壁がそびえ立っている。この壁を、アクション性によって主人公に感情移入することで、一気に飛び越えるのである。ゲームをプレイしている間、我々はディジタルな存在と化し、あるいはキャラクターたちは現実世界に受肉する。ここでキャラクターは単なるオブジェではなく、我々と同一次元に立つ存在となり、我々は彼女たちを生きているものと認識してその行動を想像するようになる。つまり、脳内で二次創作する」

  • 反復性 (1999年:Kanon

シミュレーション性の追求によってシナリオの大部分が日常シーンになり、明けても暮れても他愛のない会話をキャラクターたちと繰り返すようになる。しかし、この反復性によって恍惚感が生まれ、シューティングゲームのような快楽をもたらすようになったと述べられています。

自主規制コード(1992年:ソフ倫

1992年コンピュータソフトウェア倫理機構ソフ倫)の誕生と共に設けられた自主規制コードが「表現の限界」という作品を規定する枠になったとの事です。

祭りの演出(2001年:君が望む永遠

これまでの作品は評判が口コミで広がったのに対し、この作品はヒロインと結ばれるまでを描いた体験版を発売前に配布して猛烈な反響を巻き起こすことに成功した。この「仕掛けられた祭り」にユーザーは半ば自覚的に嬉々として乗った。エロゲを作品としてではなく「祭り」として捉えて成功した最初の作品であると述べられています。

範型形成以降のエロゲ

いかなる科学であれ、ひとたび範型ができてしまうと、それ以降は範型なしに研究を成りたたせることができなくなる。ひとつの範型を放棄すると同時に、他のなんらかの範型を採用しないかぎり、科学そのものを放棄せざるをえなくなる。新しい範型を用意することなく、既存の範型を放棄してしまった人びとは、もはや仲間から「自分の道具が気に入らない大工」のようにみなされることになる。そのような人びとにとって、残された唯一の道は、科学をやめて他の職業に移ることしかない。
(中略)
(範型形成以降、研究者は)範型の提出するパズルを漸次的(ピースミール)に解きすすめるという地道な仕事をするようになる。

経済学とは何だろうか 岩波新書

この引用文からエロゲについて類推できるものを箇条書きにするとこうなるのかな?

  • エロゲの範型が2001年に形成されてしまった後は、その範型に従ってジグソーパズルを組み立てるような状況が続いている?
  • この状況を嫌がったとしても新たな範型が用意できない限りエロゲを放棄するしかないので、現状維持するしかない?
  • 中にはこの状況を嫌がってエロゲをやめて他の職業(別のジャンル)に移ってしまった人もいるのでは?

しかし、こうやって列記すると範型が「悪」のように見えてしまいますが、そうではありません。

パラダイムが科学研究における「型」であるとすれば、通常科学は「型にはまった」研究ということになろう。しかし、そのことは通常科学が誰にでも出来る陳腐な仕事である事を意味するものではない。クーンの通常科学の概念は、しばしば科学研究をルーティン・ワークに貶めるものとして非難の的になっているが、それは単純な誤解にすぎない。クーン自身が「成熟した科学の活動に実際に従事したことのない人には、パラダイムがなすべき仕事として残すこの種の掃討作業がどれほど多いか、またこうした仕事を成就することがいかに魅力的であるかを実感することは難しい」と述べているように、ほとんどの科学者はこの掃討作戦に生涯を賭けて取り組むのであり、またそれは取り組むに値する仕事なのである。

パラダイムとは何か 講談社学術文庫

これと同じことを元長氏は論考の中でこう述べています。

美少女ゲームのゲーム性は、テキストの芸は、スクリプティングの芸はまだ極められていない。筆者もまだその裾野にいるに過ぎない。これからアタックをかけようという段階だ。攻略すべきポイントは無数にある。テキスト自体の洗練。視点の実験。欲望の王国の追求。演劇との類縁性の模索。パラレルな伏線構築。どこから手をつけたらいいか途方に暮れるくらいだ。

回想――祭りが始まり、時代が終わった 美少女ゲームの臨界点

私が「猫撫ディストーション」で確認したいこと

ようやくここに辿りつけました。長い説明でした。私は、元長氏が「型にはまっているエロゲ」という事を明確に認識していながら、そのうえで一体どのような掃討作戦をしてくれるのか?を確認したいのです。