エロゲ批評に物足りなさを感じてしまう要因

エロゲ批評に関してちょっと面白い記事があったので反応してみた(笑)。

【参照リンク】 TYPE-MOONとビジュアルノベルの10年 (輝かしい星が見る夢 奈須きのこインタビュー)

奈須:(中略)これは批評をやっている人には耳の痛い話でしょうが、ビジュアルノベルを語るときにシナリオだけで判断しないでほしい。システム、演出、CG、音楽から、果ては売り方やパッケージングまで含めてひとつのゲームなので、全体を見るべきなんです。シナリオの話をするだけなら小説を語ればいいんですから。一消費者ではなく、批評する側の人間なら、「ゲームを作ってから批評しろ」なんてバカなコトは言いませんが、「この商品はどういった過程で作られるものなのか」ぐらいは学んでいてほしい。制作者の為ではなく、これから制作者を志す次代の人たちの為に。

つまるところ「エロゲってシナリオしか批評されないよね」と。実際エロゲ批評のほとんどはシナリオに重心をおいて語られることが多いようです。しかし、ここで書かれているように「システムや演出、CG、音楽、マーケティングまでフォローしてエロゲを批評しろ」というのはさすがに無理だろうとも思います。これらの項目について批評をするにはとてつもない広さの知識が必要になってくるからです。演出について説明し、CGについて解説し、音楽について語り、その上マーケティング戦略にまで詳しいなんて「どんなスーパー主人公の友達だよっ!」って感じですね(笑)。なので逆に一人でこれを成し遂げたら、それこそエロゲ批評界に燦然と名を残せる程の業績になると思います。で、今回の記事のタイトルに関してこんな資料があります。

これは「2008オタク産業白書」にあった「美少女ゲームの要素と重要度」について描かれたグラフです。各要素の割合と重要度をどうやって算出したのかがまったく分からない怪しいグラフなんですが、なんとなく「まぁ、こんなもんかな」と思う人は多いのではないでしょうか。とりあえずこれが正しいと仮定した場合、「エロゲにはシナリオ以外にも重要な要素がまだたくさんあるのになぜそっちは批評されないの?」と思ってしまいます。従って、仮にシナリオについて十全な批評がされていたとしても、総体としてはまだ語られていない部分がたくさんあるようにみえてしまい、「(シナリオ中心の)エロゲ批評は物足りない」と感じてしまう訳です。ただ、私はエロゲ批評ってこのようなものでも構わないとも思っています。

私は、長年、批評文を書いて来たが、批評とは何かという事について、あまり頭脳を労した事はないように思う。これは、小説家が小説を、詩人が詩を定義する必要を別段感じていないのと一般であろう。
文学者というものは、皆、やりたい仕事を、まず実地でやるものである。私も、批評というものが書きたくて書き始めたのではない。書きたいものを書きたいように書いたら、それが、世間で普通批評と呼ばれるものになった。それをあきもせず繰り返して来た。批評を書くという事は、私には、いつも実際問題だったから、私としては、それで充分、という次第であった。しかし、書きたいように書くと、批評文が出来上がってしまって、それは、詩とか小説の形を、どうしても取ってくれない。という事は、私自身に批評家気質と呼ぶべきものがあったという事であり、この私の基本的な心的態度とは、どういう性質のものか、という問題は消えないだろう。

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エロゲについて何かやりたい人がやった結果を世間がカテゴライズしたら批評だったというだけですから、「皆、やりたい仕事を、まず実地でやる。その結果は世間が適宜判断するでいいんじゃね?」という事です(笑)。